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 Vol.19             スウィーニートッド(2007年/アメリカ/ワーナー・ブラザース/120分)
■鑑賞日 2008.02.03(日) ■劇場名 シネマ太陽帯広
■作品データ
■監督 ティム・バートン
■キャスト スウィーニー・トッド/ジョニー・デップ、ミセス・ラペット/ヘレナ・ボナム=カーター、タービン判事/アラン・リックマン、役人/ティモシー・スポール、ピレリ/サシャ・バロン・コーエン
■ジャンル ミュージカル(ホラー)
■あらすじ 舞台は19世紀の英国ロンドン。フリート街で理髪店を営んでいたベンジャミン・パーカーは、ある日突然全ての幸せを奪われる。それは彼を嫉む悪徳判事タービンによって仕掛けられた卑劣な罠だった。無実の罪で監獄へと送られたパーカーは、15年後に脱獄を果たし、スウィーニー・トッドと名前を変えてフリート街へ戻ってくる。しかし、そこで聞かされたのは、耳を覆いたくなるような妻と娘の悲惨な運命だった。フリート街に再び開いた理髪店には、胸には復讐を秘め、目には狂気を湛え、そして手にはカミソリを持つ殺人理髪師スウィーニー・トッドの姿があった。彼の共犯者となるのがパイ屋を経営するミセス・ラペットで、量産される死体の処理を一手に引き受ける。飛ぶように売れるパイ、彼女はスウィーニーとの幸せを夢見るが、スウィーニーは復讐だけに取付かれていた‥。
■コメント

「スウィーニー・トッド」は150年間もの間、ミュージカルとして演じられてきており、トニー賞8部門受賞作品である。ちなみに、映画化は2回目で、猟奇的なその表現からか「R15指定」となったが、単なるホラー映画となるのか、それとも深みのある愛憎劇となるのか、ティム・バートンとジョニー・デップのお手並み拝見といった気分での鑑賞となった。
個性派スターの名を欲しいままにするジョニー・デップ。この映画は彼のために製作されたと言っても過言ではない。「ジョニーありき」の映画であるから、極言すれば、ストーリー展開や構成、キャストなどはどうでもいいのだが少しだけ触れておこう。
映画のテーマは「愛」。主人公スウィーニー(ベンジャミン・パーカー)の妻と娘への深い愛。幸せの絶頂期にある彼から最も大切なものを奪った人間達。怨みは骨髄まで染みているはずで、凄惨を極める復讐劇も深い愛故なのだ。また、ミセス・ラペットもスウィーニーを愛しているからこそ共犯者となる。二人だけのささやかな幸せを願いつつ、人肉パイを平気で焼くこの乖離は愛でしか割りきれない。スウィーニーの妻と娘を略奪するタービン判事の行為も社会通念上許されるものではないが、これもまた愛のなせる業と言うべきだろう。
喉がかき切られ血飛沫が舞うシーンがイヤというほど登場する。そのおぞましさにおいては類例を見ない内容である。ティム・バートンの意図通り、復讐の鬼と化したジョニーの狂気だけは観る価値がある。無表情で黒を基調としたメイク、血の色だけが鮮烈な赤色を放っている。返り血を浴びた彼の形相たるや常人のものではない。スウィーニーという狂気に満ちた役どころを、臆することなく自身の強烈な個性で演じたジョニーは流石だと思う。今年度のアカデミー賞(主演男優賞)ノミネートは当然といえるだろう。
ストーリー展開としては、スウィーニーは復讐を成しえるものの、娘に殺人場面を見られたり、変貌した妻を妻と知らずに殺したり、サポートしてくれたミセス・ラペットを燃え盛る火に投げ込んだりし、挙句は愛用のカミソリが自らの首に牙をむくというもの。これしかないというエンディングではある。
ミュージカル仕立てというのも映画に特別の効果を与えているのではないだろうか。心躍る曲ばかりではないが、美しい旋律の中で繰返される殺人は凄惨さを際立たせるし、スウィーニーとタービン判事がデュットしたりもする。全く正反対の意図を持った二人が一緒に愛を歌うなどというのは、ミュージカルならではの演出であろう。もともとはロックバンドのギタリストだったというジョニー・デップ、意外と太い歌声ながら歌もしっかりこなしていた。外国の役者さんは本当に基礎能力が高いと思う。
ジョニー・デップの怪演ぶりは確かだが、作品全体としてはあまりに猟奇的で、私としては肯定的に評価することはできない。ほとんどホラー作品と言うべきで「2」が妥当なところか。

 Vol.20             ミルコのひかり(2005年/イタリア/シネカノン/100分)
■鑑賞日 2008.02.12(火) ■劇場名 CTNEとかちプリンス
■作品データ
■監督 クリスティアーノ・ボルトーネ
■キャスト ミルコ/ルカ・カプリオッティ、フェリーチェ/シモーネ・グッリー、ジュリオ神父/パオロ・サッサネッリ、エットレ/マルコ・コッチ、フランチェスカ/フランチェスカ・マトゥランツァ
■ジャンル ドラマ
■あらすじ 1970年代初頭のイタリア、トスカーナ地方。10歳のミルコは映画を愛する少年だったが、銃の暴発で両目の視力を失ってしまう。当時のイタリアでは、盲目の少年は普通の学校教育を受けることが出来なかったため、ジェノヴァにある全寮制の盲学校へ転校させられてしまう。心を閉ざし新生活になじめないミルコだったが、ある日、学校の片隅で古ぼけたテープレコーダーを見つける。「音」との出会いに新鮮な喜びを感じるミルコ。寮母の娘フランチェスカやフェリーチェと音を集め物語を作る。ミルコの行動はクラスメートに夢と希望を与え、周囲の人達や世論をも突き動かしていく。しかし、校長は校則に違反するとしてミルコの退学を決める。苦境に陥ったミルコ、その時、彼の優れた聴力に気づいた担任ジュリオ神父が救いの手を差し伸べる…。
■コメント

心なしか、最近は事実をベースにした映画が多いような気がする。人間の際限のない創造性には驚くばかりだが、日々、生起する現実もまたサプライズの連続といっていいだろう。「事実は小説よりも奇」なのである。今回、紹介する「ミルコのひかり」も、イタリア映画界の第一線で活躍するサウンドデザイナーとなったミルコ・メンカッチの少年時代の実話に基づくものである。
映画は、ミルコ少年が不慮の事故により突然視力を失うところから始まる。視力を失うことそのものが大変悲惨なことだが、先天的な視力障害者に比べ、後天的な障害者は視力喪失時の動揺や混乱等が大きいのではないだろうか。今まで見えていたものが突然見えなくなり、暗闇の世界に放り込まれるのである。私など発狂してしまうに違いない。おそらくや、ミルコも例外ではなかっただろう。だが、映画の中ではこの辺りはサラッとしか触れていない。絶望的な状況を冷静に描くべきだったと思う。それとも、ミルコは特別だったのか。その後の彼の行動を見ていると、やはり彼は特別だったのかもしれないと思えてくる。「心の目」をしっかり開いていたからこそ、自由を信じ、深い探求心や創造性を発揮できたに違いない。テープレコーダー=「音」との出会い以降は堰を切ったように才能を開花させていくミルコ。当然な展開というべきか。
しかし、厳しい現実社会の中でいかに才能豊かと言えども、一人、それも子供一人で乗越えて行けるものではない。かけがえのない友達がいることや、子供達を信じ暖かく育む大人がいることが必要なのである。この場合、フランチェスカやフェリーチェであり、ジュリオ神やエットレである。彼らがいなければミルコの人生も違ったものになったはずである。つまり、子供の問題は優れて大人のそれであり、大人が試されているといっていいだろう。翻って、自分はどうだろうか。恥ずかしくない大人でありたいと思う。
心に残るシーンを幾つか‥。1.映画の最初と最後に、輝く麦畑で遊ぶ子供達が映し出される。トスカーナ地方の美しく豊かな自然が、子供達を暖かく包み込み育むことを象徴するかのようなシーンである。2.夜、電気が点いているにもかかわらず、点かないといって何度もスイッチを入れるミルコ。彼に残されていた僅かな視力が失われた瞬間である。3.そして、クライマックスの学芸会の場面、音は童話劇を熱演する子供達の声だが、カメラは誰もいない校舎内を映し出す。寮、食堂、教室‥、ゆっくり移動しながら学芸会の会場に向かう。徐々に大きくなる子供達の声、会場から溢れ出す光でスクリーンが真白になる。正しく「音は光」だったのである。
人間の未来にはどんな現実が待ち受けているのか分らない。良いことばかりとは限らない。どのようなそれであろうと、事実として受け止めることが出発点なのだ(人生相談の台詞のようだが‥)。そして、そこから何かを成すべきなのだろう。